夏になると雑木林に漂う甘酸っぱい香り。
現役からロートルまで、全ての昆虫少年の心を躍らせる原風景。通称:樹液酒場。
樹木の樹皮の下には、維管束と呼ばれる、いわば樹木の血管とも言えるパイプ網が存在し、樹皮が傷つけられると、パイプの中を輸送されている液体が樹皮の外に滴り落ちてくる。これがいわゆる樹液というものだ。
松の木を始めとする針葉樹は、いわゆる松脂(まつやに)と呼ばれる、べっとべとでテレピン油の臭いがするおよそ食べ物とは程遠い樹液を出すが、広葉樹では、わずかに糖分を含み昆虫の餌となる樹液を出すものが見られる。注)
身近なところでは、カナダや北米に分布するサトウカエデがある。この樹液を、40倍ほどに煮詰めるとメープルシロップができあがる。
日本では、クヌギ・アベマキ・コナラ・クリ・ヤナギ・ハルニレ・アキニレ・シラカシ・アカガシ・マテバシイ・アカメガシワ・タブノキ・ハシドイ・ライラック・シマトネリコなどが昆虫の餌となる樹液を出すことで知られている。注)これらの樹木の樹皮がカミキリムシや蛾の幼虫やナタを持った悪ガキに傷つけられると、樹液が染み出す。また、カブトムシやクワガタのメスが樹皮を齧ったり削ったりして樹液を染み出させる場合もある。
樹皮や昆虫の体に付着している酵母が、樹液の中の糖分を利用してアルコール発酵をする、出来たアルコールを今度は酢酸菌という細菌が分解して酢酸をつくる。
こうして、あの懐かしい甘酸っぱいお酒の香りが夏の森に漂うのである。注)
昨年、山梨県の韮崎市で、カブトムシやオオムラサキのあつまる樹液酒場からサンプルを採取し、酵母を取り出そうと試みた。
しかし、何日かかろうとも、私が樹液を混ぜ込んだ5%ブドウ糖注射液に、発酵の兆しは見られなかった。
今年もまた夏がやってきた。樹液が溢れる木々を巡っては昆虫を探すのが夏のルーティーンとなっている私だが、なぜか今シーズンは遠出をする機会がなく、韮崎に足を運べていない。
しかし、夏に樹液酒場で昆虫を探さないと寿命が3年縮むと医者に言われているため、いたしかたなく、近所の小さな雑木林を覗いてみることにした。
はたして、そこには、韮崎の採集ポイントよりも遥かにお元気いっぱいに樹液を吹き出すクヌギの木々があった。子供の頃に見た光景を遥かに上回る、異常なほどの樹液っぷりである。
これは、いわゆるナラ枯れ現象と呼ばれるクヌギの『受難』の産物であるため、手放しで喜んではいられないのだが、今年もどうにか樹液のサンプルを採取することができた。注)
昨年の失敗を参考に、5%ブドウ糖注射液ではなく、20%ブドウ糖注射液にサンプル入れて持ち返り、保温して3日目の沈殿物を、今度は自作の滅菌黒糖溶液に移して培養を試みた。糖分も20%に調節してある。すると、非常に弱々しくではあるが、管底から二酸化炭素の泡が立ち上るのを確認できた。発酵がはじまった証拠だ。
よっしゃいけるぞ! と思ったのも束の間。翌朝には無言の培養瓶と沈黙のご対面をすることとなった。どうやら酵母が弱っているらしい。注)
普段 我々がお菓子作りやパン作りに用いる酵母は、砂糖水に溶かしてから生地に練り込んでやれば、速攻で活動を開始し、ものの見事に二酸化炭素を発生して、生地をふわふわのスポンジに変えてくれるのだが、樹液から採取した天然酵母は勝手が違う。
製パン・製菓業界では、確実性を重視して工場生産された、選りすぐりの強い酵母を使用しているのだから、結果の違いは当然なのだが、それにしても弱い。弱すぎるぞ樹液の酵母!
こうなるともう、判官贔屓の血が騒ぐのが日本人である。なんとか樹液の天然酵母を立派な強い子に育てたくなるのが人情というものである。
ときどき街でみかける『天然酵母使用!』という自然派のパン屋さんのことが思い浮かんだ。彼らの矜持は天然酵母は弱いんです!その酵母を大切に育ててるんだから、私の製パン技術は高度だし、ウチのパンには愛がこもってるんです!と そういう意味だったのかとなんとなく理解できた。
ひとまず、天然酵母でパンを焼いていらっしゃる方のブログでも検索して、そもそも天然酵母とはどんなものなのか。どう育てたら良いのか、一から勉強をしなおうそうと熟読してみた。
ひととおり頑張って読んだが、よくわからなかったので、今度は、樹液酵母を研究している学者の研究に目を通してみた。有用な酵母を求めて、サンプルを集めまくって培養している研究者がけっこうたくさんいるのに驚いた。
ここからは、クックパッドから、実験室ふうに話しが進んでいく。
『昆虫酒場の酵母でパンを焼くの巻』−2につづく。
ちなみに『−2』は次回アップされるわけではありません。次回は全く関係のない記事が掲載されたりします。『−2』が気になってしょうがないとは思いますが、『パンが焼き上がるまで』しばし、お待ちいただきますようよろしくお願いします。
必ずやパンを持って戻ってきます。お楽しみに!
なお、以下は『樹液酒場の酵母でパンを焼くの巻』−1の内容を補足する注釈です。めっちゃ長い注釈ですが、最後までお楽しみください。
注) 木登りをして服に付けて帰ろうものなら母親からボッコボコにお叱りをうける松ヤニ。松ヤニにはロクな思い出がない。まだ幼稚園の頃、クワガタの餌が『樹液』だと聞いて、どうしても『樹液』というものを食べさせてあげたくなり、『樹液』って何?と祖母に聞いたら、隣家に生えた赤松のヤニを指さしてあれが樹液よと教えてくれた。なんかすごいベトベトだよなぁと半信半疑で持ち帰り、クワガタの口に塗ってあげたら、口器(ブラシの部分)がバッキバキに固まって死んでしまった。大事なクワガタが速攻で死んでしまい、いずみ幼稚園・竹B組の石橋くんは一晩泣いた。
井の頭公園には、初心者マークの形をした大きな傷のある松の木がある。太平洋戦争で、資源が枯渇した日本が、松の木から松ヤニを採取して、そこから松根油というものを抽出して、ガソリンの代わりに戦車の燃料にしようとした痕跡なのだと亡き父から聞いたことがある。飢餓と欠乏の象徴としてあの松の木の傷がいまでも脳裏に焼き付いている。
そんなトラウマもあり、油絵の具のテレピン油の匂いを嗅ぐ度に松ヤニを連想して無意味にいやーな気持ちになったものだが、あるとき松ヤニの化石が琥珀となる事を知り、その琥珀の中には太古の昆虫を閉じ込めた虫入り琥珀というものがある事を知って、ちょっとだけ松ヤニが好きになった。その後、虫入り琥珀からヒントを得たジュラシックパークという映画ができて、俄然、松ヤニを見直し現在に至る。
注)樹液酒場というと、まっさきにクヌギが思い出されるが、クヌギにはアベマキというそっくりさんがいて、区別がつけられないまま『クヌギ!』と呼ばれていることが多い。アベマキって気の毒だ。そして、昆虫の集まる樹液を出す木はクヌギにとどまらず意外なほど種類が多いので、これらを覚えておくとクワカブ採集の選択肢が増え、打率もあがる。昨今はネットですぐさま植物の同定ができるので、オフシーズンはスマホ片手に『クヌギのはえていない森』を散策して樹液酒場候補を物色してみてはいかがだろうか。また、シマトネリコは庭木として人気があるが、郊外の住宅の庭にシマトネリコを植えたところ、突如としてカブトムシが押し寄せてきて気持ち悪いほどであった といった書き込みがSNSで散見される。近所に大きな森や雑木林や公園があるお宅は、庭にシマトネリコを植えてみたらいかがだろうか。バタフライガーデンならぬビートルガーデンが楽しめるかもしれない。
注)甘酢っぱいお酒の香りと軽々しく書いたが、科学的な表現としては多少の問題がある。酢酸のすっぱい匂い アルコールのお酒の匂い これらは実在する。しかし、糖分そのものに匂いは存在しない。純然たる甘さを嗅ぐことは理論上不可能である。にもかかわらず、甘酸っぱいとつけてしまうのは、脳が甘さを想定しているからである。りんごは甘いと知っているからりんごの香りを甘酸っぱいと表現する。バナナを甘いと知っているからバナナのエステル香を『バナナ独特の甘い香り』などと表現する。スイカなどの甘いものを好んで食べるカブトムシがたかっているのだから、樹液は甘いに違いない。脳はそう認識している。だから樹液は甘酸っぱい香りがすると表現されるのだろう。知らんけど。
ちなみに、カブトムシは酸っぱさの本体である酢酸も、お酒の匂いの本体であるアルコールも命を支える栄養源として頼りにしているわけではない様だ。これらの匂いはあくまでも樹液酒場のありかを遠くから察知する目印として活用されているようだ。頼みの綱の糖分といえば、食中毒覚悟で樹液を舐めてみるとわかるように、ぜんぜん甘くない。ではどうしてあれほどの巨体を維持する栄養分を樹液酒場から得ているのか。 一説によると、カブトムシは酵母そのものを栄養源としているらしい。エビオス錠が栄養満点のサプリメントとして優秀なのは皆さんよくご存知であろうが、あのエビオスとは、ビールを製造する過程でできた酵母の栄養素そのものなのである。エビオスの成分表を見ると、カブトムシが酵母そのものを栄養源としている説が俄然信ぴょう性を帯びてくる。エビオスを粉にして砂糖水に混ぜてワンペア百万円の高級クワガタムシに与えたら、産卵数が増えるかもしれない。知らんけど。
注)ナラ枯れとは、昨今問題になっている環境崩壊現象である。樹液酒場の舞台となるクヌギやコナラなどのナラ科の樹木に、カシノナガキクイムシという5mmほどの細長い甲虫が穴をあけて食い荒らすことからこの現象はスタートする。
カシノナガキクイムシはここ数年、日本各地で大発生がおきており、都市部の雑木林でも被害が拡大している。
一説には、クヌギやコナラの大木化が進み、細い木よりも太い大木を好むカシノナガキクイムシが大発生しているのだそうだ。昔の雑木林は生活資材として利用されていたので、繰り返し伐採と植栽がくりかえされ、大木は多くなかったらしい。日本人の生活様式が変わって、雑木林の定期的な伐採と植栽が行われなくなり、年老いた太い木ばかりが残り、カシノナガキクイムシ天国が誕生したというわけだ。
ここ数年、大量のカシノナガキクイムシがクヌギやコナラの樹皮のそこかしこに穴をあけまくるので、従来のカミキリムシや蛾の幼虫が作り出す樹液酒場の数とは比べものにならないくらい、一本の木から大量の樹液が溢れ出す事態となっている。これに伴い、雑木林にクワ・カブフィーバーが訪れているのだが、これは一時的な狂宴にすぎない。
カシノナガキクイムシは、ある種のカビを体に収納する構造があり、絶えず何種類かのカビを持ち歩いており、木に潜り込むたびにカビを木から木へと感染させていく。カビは木に感染して増殖するが、カシノナガキクイムシはこれを栄養源とするらしい。ハキリアリと同じで、自らの食べ物を育てる農夫のような昆虫なのである。カシノナガキクイムシにカビを移された木は、栄養と水分を運ぶ維管束を破壊され、やがて枯れてしまう。木を枯らすカビの一種は、俗に『ナラ菌』と呼ばれ、ナラ菌によって次々と木が枯れていく現象を『ナラ枯れ』と呼ぶ。
ナラ枯れは、大切な雑木林を枯れ木林に変えてしまうだけでなく、人体に直接的な被害をもたらす事態を招く。枯れた木から『カエンタケ』という猛毒(と言われている)キノコが発生するからだ。カエンタケは火炎の字の如く、燃え盛る炎のような形状と真っ赤な色が特徴的な目立つキノコで、子供にしてみたら、つい、ちょっかいを出したくなる存在である。しかし、カエンタケは食べると猛毒 触れても火傷のような炎症を起こしたりと、非常に危険なキノコなのである(と言われている)。よって、カブトムシフィーバーによって一時的に楽しかった雑木林も、まもなく枯れ木だらけの死の森となり、そこから生えたカエンタケによってさらに子供たちにとって大変危険な地雷原となっていくのだ(と大袈裟に盛ってみた)。
とかいいつつ、実のところカエンタケの被害報告はそれほど多くないらしい(笑) そもそもあれを食べようと思う人はほとんどいないだろう。心配なのは触れるとただれるという毒性。子供がいたずらしてみたくなるルックスではある。汁が飛んで子供の皮膚につく可能性も考えられる。しかし、実際には火傷のような猛烈なただれを起こした症例というものは報告されていないらしい。わざわざ汁を皮膚に塗りたくる動画が紹介されているが、結局 皮膚炎は起きず、触れただけで皮膚がただれる説が否定されている。カエンタケでただれた皮膚というタイトルで紹介される足がぐっちゃぐちゃの写真も、冷静に考えてみればけっこう怪しい。裸足でカエンタケを踏みまくる人がいるのだろうか。ちょんとつついた指先がただれている写真がないのが不思議である。
何故 危険性がやたらと流布されているのかは謎である。が! カエンタケって最高に美味いんだってよ!ってなデマが広まるよりはマシであろう。毒性があることには違いがないのだから。
注)酵母が糖分を分解してアルコール発酵を行うと聞いて、酵母の餌は糖分だと単純に理解したのが間違いであった。ケチって5%ブドウ糖注射液にしたのも去年の敗因であるが、酵母の発育至適糖分は20%あたりであり、発育にはミネラルやビタミンやアミノ酸といった、あたりまえの栄養素が必要なのだという事を、失敗した後になって知った。かくして今年は20%ブドウ糖注射液と西表島の黒砂糖を使って一応の成功を見たのだが、そもそも大学で微生物学というものを履修して単位をとった者として、『寒天培地』というものの存在を思い出さなかったのは恥ずべきことである。微生物の分離培養は、寒天培地というものを使いこなさなくてはならない。幸いにして、昨今では寒天培地を手作りする必要がなく、楽天やAmazonから培地が手に入るのであった。
めっちゃ長い注釈はここまで。
しつこい様ですが、この続きは『昆虫酒場の酵母でパンを焼くの巻−2』に続きます!
