ヒラタクワガタの想い出

井の頭公園の、西園と呼ばれているエリアは、かつては日産自動車の保養施設であり、『日産厚生園』と呼ばれていた。私がこの地に動物病院を開業したあたりから、知らぬまに『春光スポーツ倶楽部』という名前になり、最終的には、日産自動車がこの地を売却する事になって、東京都恩賜井の頭公園に併合された経緯をもつ。

エスパー伊東氏の指導の下、元米特殊部隊員の協力を得てレバノンに逃亡したカルロス・ゴーン氏が、経営立て直しのために、やたらと日産の資産を売却していた頃の出来事だったと記憶しているが、武蔵野の面影を残す美しい雑木林を含む広大な土地が、丸ごと巨大なマンション群にでもなったら悲惨だなと、閉鎖された跡地のフェンスごしに中を覗いてはため息をついていたのだが、ほとんど樹木を伐採することなく公園として残した東京都に喝采を送りたい。

前置きが長いが、本題はヒラタクワガタの話である。

私が動物病院を開業した2000年の夏。ちょんまげロジャー君と呼ばれていた愛犬のゴールデンレトリバーとカミさんの3人で終業後の散歩をしていたところ、春光スポーツ倶楽部のフェンスからはみ出したクヌギの大木の樹液に、一匹のクワガタが張り付いているのを発見した。

懐中電灯を持っていたわけでもなく、街灯も遠い暗がりの中、わずかに反射したエリトラの輝きを見逃さない私の『無駄な眼力』を、無駄と言わずに普通に褒め称えてくれたカミさんの心の広さに感謝しつつ捕獲したのは、全長2センチ未満の超極小サイズのヒラタクワガタのメスであった。

武蔵野の雑木林そのものは保存されているものの、安全管理などの目的でしっかり整備された公園には、クワガタの幼虫を育む朽木の量が圧倒的に少なく、おそらく食糧事情の悪さからこのように矮小化したクワガタが発生していたのだと思われる。

当時、国分寺にあったランバージャックというクワガタ・カブトムシの専門店に頻繁に出入りしはじめた時期でもあったので、さっそく店主に相談し、飼育繁殖に必要なものを一揃い購入した。店主いわく、『小さい個体からとった子供を大きく育てるのがクワガタ飼育の醍醐味の一つです』とのことだったので、見た事もないような超極小お母さんから、どんな子供たちが育っていくのか、ワクワクして飼育を開始した。

ヒラタクワガタはおおむね1年1化で、夏に産ませた卵は翌春には蛹となり、初夏には成虫が羽化し、交尾産卵に至る。早い話が一年で一世代がまわる昆虫ということである。

クワガタの幼虫を育てる方法の一つに、菌床飼育というのがあり、菌糸瓶と呼ばれるものに幼虫を放り込むだけで簡単に大きく育つので楽ちんだ。菌糸瓶とは、キノコの栽培技術から派生した飼育用品で、クワガタが好むクヌギなどの材を粉々に粉砕したものに、適度な水分を加えた後、キノコの菌糸を生やして瓶につめたものである。放置するとキノコが生えてきて、普通に美味しく食べることができるが、キノコが生えるまえにクワガタの幼虫を潜り込ませて、自然界での彼らの食糧である『朽木』を再現するのである。

クワガタの腸内には、共生微生物が何種類もいて、朽木や菌糸のセルロースを分解して、クワガタが直接利用できる栄養にしてくれる働きをする。われわれの腸内に住むたくさんの腸内細菌と似たような存在である。この腸内の共生微生物たちには、慣れとか適応という現象があるらしく、何世代にも渡って、菌糸瓶で飼育していくと、腸内微生物がこれに馴染み、だんだんと消化の相性がよくなって、成長が良くなるのだそうだ、これを『菌糸慣れ』というらしい。菌糸慣れのニュアンスには、諸説あるが、犬でも猫でも、ある日突然まるっきり違うフードをたべさせたら下痢をするのと同じで、腸内環境は個体の健康に大きく影響しますよ。ということなのだろう。

そんなこんなで、2000年の夏以来、チビチビ母さんの子孫を毎年繁殖すること24年間。外部の血を入れず、ひたすらインブリードを続けた記録としては、けっこうなものであろう。その間、菌糸慣れの賜物なのか、過去に武蔵野エリアで採集されたヒラタクワガタの最大サイズが生まれ続け、ランバージャックの店主が教えてくれた『小さな個体を大きく育てる楽しみ』は十分に堪能できた。

実験動物のマウスやゴールデンハムスターなどは、直径のインブリードでほとんどクローンのような生き物になっており、遺伝的な多様性がない。近交係数が高いとも表現されるが、多くの生物でこのような繁殖を続けると、先天疾患などのトラブルが発生しやすいと言われている。これを累代障害と呼ぶ。マウスやハムスターは累代飼育による弊害が出にくい生き物の代表格だが、クワガタでの検証例は報告が少ないように思う。おそらく、より強くて大きく大切に育てたいという意識から、累代障害が出ないように定期的に外部の血を入れるからであろう。

たまに、クワガタの血統を絶やした人が『累代障害が出て絶えた』とぼやくことがあるが、ランバージャックの人気者であるハリウッド・ザコ・ヒゲ店長に言わせると『飼育に飽きたから世話がテキトーになっただけだろう』とにべもない。確かにそれも一理ある。羽化後のメスの熟成期間を十分にとってから満を持して交尾をさせるといった『ちょっとした手間』を、飽きからくる手抜きですっとばしてしまえば、繁殖が途絶えることは十分に考えられる。

飼育に飽きず 必死に真面目に世話をし続けても、あきらかに累代障害が出る例もある。先ごろ絶滅してしまったオガサワラシジミが良い例である。多摩動物園のインセクタリウムの職員が、種の保存の責任とプレッシャーを一手に背負って臨んだオガサワラシジミの累代飼育も、精子の形成不全という累代障害が発生してあっけなく全滅してしまったのは記憶に新しい。

そして 我が家のヒラタクワガタ。累代飼育を続けること24代。途中、カミさんの闘病と死別という人生最大の危機を迎えつつ、シングルファザーで開業医というちょっと勘弁してほしい逆境の日々ですら途絶えることがなかった強靭な昆虫であったが、なぜか24年目にして、突如として卵を産まなくなった。複数ペアで産卵セットを真面目に組んだが、どれ一つとして次世代を残すことがなかった。

飽きたのか? いや。そもそも最初から肩に力の入った作業でもなく、飼育の難易度も低い種類であったから、飽きるほどの心の変化もないルーティンワークだった。

種の保存という命題もかかえていなかったので、病理検査をすることもなかったため、原因は謎のままである。その後、出先のどこかでヒラタクワガタを見つけることがあっても、連れて帰ることはしなくなった。

だって はじまっちゃうと長いんだもの。




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